発明王 トーマス・エジソンの人生
トーマス・アルバ・エジソン (1847〜1931)
アメリカの大発明家であり、実業家でもあります。
巨大企業G・Eの前身の社長でもある。
小学校に入学すると「なんで1+1=2になるの?」と、気になることを質問しては授業の進行を妨げて、へきえきした教師はエジソンを罵倒し、さじを投げてしまったそう。
エジソンのお母さんは学校に対して「生徒の質問に答えるのが教師の役目だ!」といいますが、学校側も「自分で教えたらどうだ!」と対立していました。
エジソンのお母さんは自宅で個人授業を行うことを決意します。
入学後3ヶ月で小学校を中退させてしまいました。
エジソンが科学へ興味を持つと母は家の地下室に実験室を与えました。
するとエジソンは専門書を読み漁り、少年期には発明家として必要な知識や習慣を身につけたのです。
エジソンはのちに
「母が最大の理解者だった」
「母がいなければ、私は発明家になっていなかった」
と語っています。
エジソンには聴力に障害がありました。
それでも彼は
「周りの雑音に悩まされず研究に集中できるからかえって好都合だ」
といい研究に没頭します。
昼夜関係なく発明に没頭し、睡眠時間も30分の仮眠を1日に数回とるだけで、80歳を過ぎても1日16時間も研究を続けていたと言われています。
睡眠についての記事
エジソンは実験の費用を賄うため、列車の中に印刷機を持ち込み、地方ニュースを書いた新聞を売っていました。
15歳の頃、列車に轢かれそうな子どもを間一髪で助けました。
助けた子どもの親が駅長で、このできごとをきっかけに親しくなるのです。
エジソンは駅長から「電信技術」を学び、たった3ヶ月で電信技術を取得したそう。
そしてついに、駅で夜間電信係として働いていた時に発明をします。
夜勤中は勤務をしていることの証明として1時間ごとに信号を送るルールがありました。退屈で眠いエジソンは「電信機が自動で1時間おきに信号を送る装置」を作ってしまいます。
ですが、上司に装置が見つかり、エジソンはクビになりました。
その後22歳でニューヨークのウォール街に行き相場電信会社に就職します。
ここで株式の電信表示機を改良し、特許も取得しました。
当時のものはよく壊れていたため、業界から絶賛され4万ドルで特許が売れました。
これは現在の日本円だと2億円相当になります。
そしてエジソンはニュージャージー州に研究所を建てて数々の大発明をしていくのです。
1877年:蓄音器の発明
1889年:動画撮影機キネトグラフを発明
と次々に発明していきます。
そんなエジソンにも人生の失敗があります。
エジソンには最初の妻と2人目の妻との間で6人の子供がいました。
エジソンは子どもたちも発明家にしようと思い、目の前で時計を分解したり模型を作ったりしました。ですが、子どもたちが興味を示さなかったため、親戚の家に子どもたちを預けてしまいます。
エジソンの子どもの長男のエジソンJrが成人すると、「エジソン二世電気会社」を設立します。この会社は「人の心を撮影できる機械」という詐欺商品を販売して倒産します。
その後、「エジソン二世化学薬品会社」を設立します。ここでもまた「あらゆる病気を治す機械」という詐欺商品を販売し、大きな社会問題に発展しました。
エジソンは「二度とエジソンという名字を名乗るな」とキレて訴訟しました。
エジソンJrは名乗らない代わりに毎月140万円の仕送りを要求してきます。
エジソンは子育てをしなかった負い目もあり、この要求をのみました。
その後息子は飲んだくれになり、離婚。
さらにはパラサイト化し、堕落の一途を辿ります。
エジソンの大きな人生の失敗は他にもあります。
エジソンは電力事業者を目指し、発電機などを直流用に開発していました。
ですが1884年、超天才ニコラ・テスラがエジソンの会社に入社してきました。
テスラは以前から独自に考えた交流による配電方式を提案し、エジソンと犬猿の仲になってしまいます。交流は直流と比べて送電ロスが少ないため、発電所の数も少なく済み、電圧を変更しやすいといったメリットがあったのですけどね。
テスラは1886年に退社します。
エジソンは世論が「交流の方がいいのでは」と傾き始め、焦ってしまいます。
エジソンはテスラをおとしめるために、嫌がらせともいえる「プロパガンダ工作」を思いつきます。交流は危険だという印象をつけるため、動物を交流電流で殺処分するというとんでもない実験を公開しました。
さらに、処刑用の電気椅子に交流電流を使うなど、徹底的に交流の印象を悪くしていきました。ですが、逆に動物を殺したことがエジソンの評価を下げてしまいます。
一方、テスラは交流電流による100万ボルトの電流を自身の体に通すなどして、人々を圧倒し、安全性をアピールしました。
そして1893年シカゴ万博での発電事業、ナイアガラの滝での発電事業などの電流戦争を経た後は世界中で直流から交流へと大きくシフトしました。
ちなみに現代でも交流電流が使われています。
電力の普及に貢献したエジソンはテスラとともにノーベル賞候補となりましたが、2人の共同研究的な同時受賞だったため、お互いに拒否しノーベル賞の受賞を逃しています。
エジソンの人生を単語だけで表すなら、
無学歴、難聴、貧困の中で研究、大発明、企業、育児放棄、動物殺傷
でしょう。
エジソンの名言
『私は失敗したことがない。
ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ。』
『成功する人は、思い通りにいかないことが起きるのは当たり前
という前提で物事に挑んでいる』
『完全に満足しきった人がいたら、
それは落伍者だ』
『私たちの最大の弱点は諦めることにある。
成功するのに最も確実な方法は、
常にもう一回だけ試してみることだ。』
『我々が何かを成し遂げようとしているとき、
ルールなどない。』
『私が成功することができたのは、
仕事場に時計がなかったおかげである。』
記事を読んでいただきありがとうございます。
今回はトーマスエジソンの人生をまとめましたが、どういった印象を受けたでしょうか?あの有名な発明王エジソンがテスラと争っていた事実には驚きました。
名言も心に影響を与えたものがあるのではないでしょうか。
コメントお待ちしています。
記事の共有よろしくお願いします。
おすすめ記事