【世界史B】インドの歴史 テスト勉強に! アーリア人 ヴァルナ制 カースト制度
世界史B、インド付近の内容ですね。
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- インドの風土と人々
- インド文明の形成
- アーリア人の侵入とガンジス川流域への移動
- 都市国家の成長と新しい宗教の展開
- 統一国家の成立
- クシャーナ朝と大乗仏教
- 仏教の中からの新しい運動
- インド古典文化の黄金期
南アジアでは、インダス文明が栄えた。
その後、牧畜民アーリア人が西北インドに侵入し、さらにガンジス川流域に移動する過程でいろいろ形成された。
インドの風土と人々
気候的には雨季と乾季の差がはっきりしたモンスーン気候帯に属している。南アジアではモンスーンがもたらす雨を蓄えて稲やヒエ・アワ、乾季に麦が栽培される。
人々は、大きくアーリア系とドラヴィダ系に分かれる。
インド文明の形成
インドで最も古い文明は、青銅器文明の都市文明であるインダス文明である。
インダス川流域のモエンジョ=ダーロやハラッパーを代表とする遺跡は優れた都市計画でできていた。
沐浴場や穀物倉を備えた遺跡は広範囲に分布している。
また、遺跡からは印章や、ろくろで作られてた彩文土器が発見されている。現在でも解読されていないインダス文字が使われていた。のちのヒンドゥー教の主神であるシヴァ神の原型や牛の像などが見つかったから、インドの元になったと考えられている。
アーリア人の侵入とガンジス川流域への移動
インド=ヨーロッパの牧畜民であるアーリア人が、インド西北部のパンジャーブ地方に侵入した。
宗教的な知識をおさめたインド最古の文献群をヴェーダと呼び、そのうち賛歌集である『リグ=ヴェーダ』からはこの時期の多神教的な世界観を知ることができる。
青銅器にかわり、森林の開墾に適した鉄製の道具が使われるようになり、牛によって惹かれる鉄の刃先をつけた木製の棃も生み出された。
アーリア人と先住民がまじわって社会が成立する過程で、ヴァルナ制と呼ばれる身分的上下観念が生まれた。
ヴァルナ制は
・バラモン(司祭)
・クシャトリヤ(武士)
・ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)
・シュードラ(隷属民)
の四つに分けられた。
しかし、のちに
ヴァイシャは商人を、
シュードラは農民や牧畜民を
指すようになった。
また、インド社会には特定の信仰や職業の結びつきによって結合をはかるカースト集団が多数生まれてきた。
インド独自の社会制度として知られているカースト制度は、ヴァルナ制などの様々な物と組み合わされて形成された。
この頃までの時代は、ヴェーダ時代とも呼ばれる。
都市国家の成長と新しい宗教の展開
ヴェーダ時代が終わり、部族社会が崩れると、政治・経済の中心はガンジス川上流から中・下流域へと移動し、城壁で囲まれた都市国家がいくつも生まれた。
それらの中からユーサラ国,マガダ国が有力となった。
このような都市国家で勢力を伸ばしてきた騎士階層のクシャトリヤや、商業に従事するヴァイシャの支持を背景にして新しい宗教が生まれ、影響力を持つようになっていった。
仏教
開祖ガウタマ=シッダールタ(尊称はブッタ)は、バラモンを最高位とみなすヴァルナ制などを否定した。
ガウタマは心の内面から人々の悩みを解くことを重視し、生前の行為によって死後に別の生を受ける過程が繰り返されるとする輪廻転生という迷いの道から人はいかに脱却するかという解脱の道を解いた。
統一国家の成立
マケドニアのアレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼし、さらに西北インドにまで進出した。
混乱ののちに登場したインド最初の統一王朝がマウリヤ朝であった。
創始者のチャンドラグプタ王は、ガンジス川を支配していたマガダ国のナンダ朝を倒して首都をパータリプトラにおいた。
続いて、インダス川流域のギリシア勢力を一掃し、さらに西南インドとデカン地方を征服した。
マウリヤ朝の最盛期を築いたのはアショーカ王であった。
彼は武力に訴える征服活動を放棄し、ダルマ(守べき社会倫理)による統治と平穏な社会を目指して各地に勅令を刻ませた。また、仏典の結集や隔離への布教を行った。しかし、マウリヤ朝はアショーカ王の死後、衰退した。
クシャーナ朝と大乗仏教
マウリヤ朝の衰退に乗じて、ギリシア人勢力がバクトリア地方から西北インドに進出した。
続いて、イラン系遊牧民が西北インドに進出し、今度はバクトリア地方からクシャーン人がインダス川流域に入ってクシャーナ朝をたてた。カニシカ王の時代が最盛期である。
クシャーナ朝は交通路の要衝にあり、ローマとの貿易が盛んであり、大量の金がインドにもたらされた。
仏教の中からの新しい運動
それまでの仏教は、出家者が厳しい修行をおこなって自身の救済を求めるものであったが、新しい運動では、自分の悟りよりも人々の救済がより重要と考え、出家しないまま修行を行う意義を説いた菩薩信仰が広まった。
この運動を、あらゆる人々の大きな乗り物という意味を込めて自ら大乗と呼び、旧来の仏教は自身の身の悟りを目的とした利己的なものであると批判し、小乗と呼んだ。
※ 現在では、小乗のかわりに多くの部派に分かれたそれまでの仏教を部派仏教と呼んでいる。
そのうちの上座部はスリランカに伝えられ、さらに東へ広がり、東南アジアで大きな勢力を持つようになった。
それまでブッタは恐れ多いものとさら、具体的な像が作られることはなかったが、ヘレニズム文化の影響を受け、仏像が生み出された。
クシャーナ朝の保護を受けた大乗仏教はガンダーラを中心とする仏教美術とともに各地に伝えられ、広がった。
また、「全てのものは存在せず、ただその名称だけがある」と説いた竜樹(ナーガールジュナ)の空の思想は、その後の仏教思想に大きな影響を与えた。
クシャーナ朝は
西:イランのササン朝に奪われた
東:地方勢力の台頭を受けて
滅亡した。
クシャーナ朝と並んで有力であったのは、広い領域で勢力を持ったサータヴァーハナであった。
インド古典文化の黄金期
グプタ朝がおこり、チャンドラグプタ2世のときに最盛期を迎え、北インド全域を統治する大帝国となった。
グプタ朝は、分権的な統治体制が特徴である。
この時代には仏教やジャイナ教が盛んとなり、中国(東晋)から法顕が訪れた。
その一方で、一時影響力を失いかけていたバラモンが再び重んじられるようになり、バラモンの言葉であるサンスクリット語が公用語化された。
ヒンドゥー教は、シヴァ神やヴィシュヌ神など多くの神々を信仰する多神教である。
この時代には、『マヌ法典』や、サンスクリットの二大叙事詩
『マハーバーラタ』
『ラーマーヤナ』
などが長い期間をかけてほぼ現在に伝えられるような形に完成した。
また、宮廷詩人カーリダーサにより、戯曲『シャクンタラー』が作られた。
天文学や文法学・数学なども発達し、十進法による数字の表記法やゼロの概念も生み出された。美術では純インド的な表情をもつグプタ様式が成立し、インド古典文化の黄金期が出現した。
グプタ朝は、中央アジアの遊牧民エフタルの進出により、西方との交易の打撃を受けたことなどにより、滅亡した。
その後、ハルシャ王がヴァルダナ朝を起こして北インド大半を支配したが、その死後、急速に衰退した。
当時の支配者の多くはヒンドゥー教の熱心な信者であったが、仏教やジャイナ教にも保護を与えた。
例えば、唐からインドに旅した玄裝は、ハルシャ王の厚い保護を受けながらナーランダー僧院で仏教を学び、帰国して『大唐西域記』を著した。また、義浄がインドを訪れ、『南海寄帰内法伝』を著した。(なんかいききないほうでん)
記事を読んでいただきありがとうございました。
テスト対策用に作ったものを投稿してみましたが、世界史ってめちゃくちゃ難しいと思います。カタカナだらけだし、中国では漢字だらけだし、混乱しないのでしょうか…?
僕の高校では世界史Aではなく、Bを最初から授業で用いていたことも影響しているのかもしれませんが、絶対に世界史は取りたくないですね!
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