ローマ 歴史の流れ 簡単に! 地中海世界とその影響 【世界史】
ローマ:ラテン人の一派によってティベル川のほとりに建設された都市国家
ローマ共和制
エトルリア人の支配を受けていたローマは、エトルリア人の王を追放して共和制に移行
共和制では
貴族(パトリキ):実権をにぎる
コンスル(執政官):貴族の中から2人 1年任期で行政・軍事を担当
元老院:貴族の中から300人で構成される
平民の権利
平民(プレブス):当時重装歩兵として貢献していたのに、参政権が認められていなかった。そのため、貴族中心に不満をもち、身分闘争を行なった
護民官・平民会の設置
十二表法:ローマ最古の成文法
リキニウス・セクスティウス法の制定:コンスルのうち一人は平民から選ぶ
ホルテンシウス法の制定:平民会の決議は元老院の承認を経ず、そのまま国法となる
非常時には独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使できた
地中海征服とその影響
ローマは重装歩兵を軍事力の中核にして元老院の指導のもと、他のラテン人やエトルリア人および、南部に住むギリシア人の都市国家を次々と征服し、前3世紀前半には全イタリア半島を支配した。
征服された都市はそれぞれ異なる権利と義務を与えられ、同盟を結ばされた。
この分割統治の方法は、征服された都市の団結と反抗を阻止した。
また、服属した住民の一部にローマ市民権を分けて与えて従わせたため、広範囲の支配に成功
その後、地中海西方を支配していたフェニキア人植民市「カルタゴ」の勢力と衝突し3回にわたるポエニ戦争が起こった。
カルタゴの将軍ハンニバルがイタリアに侵入し、ローマは危機に陥ったが、スキピオの活躍などで勝利をおさめた。
だが、ポエニ戦争中ローマには深刻な変化が生じていた。
中小農民は長期の征服戦争に行っていたため農地が没落し、落ちぶれた農民の多くは都市ローマに入ってきた。
こうした無産市民たちは、属州(イタリア半島以外のローマの征服地)から大量に輸入される安い穀物で生活した。最初の属州はシチリアである。
騎士階層は属州の拡大によって莫大な富を手に入れた。
彼らはローマの支配層であり、イタリアで農民が手放した土地を買い集めたり、征服でローマのものとなった公有地を手に入れるなどして、戦争捕虜である奴隷を多数使った大土地所有制(ラティフンディア)によって大規模な農業を行なった。
これらによって、貧富の差が拡大。その結果、市民と平等を原則としたローマの都市国家は大きく変化し始め、共和制は揺らぎ始めた…
政治家は
・平民派:無産市民や騎士が支持する
の2つにわかれていった。
内乱の1世紀
グラックス兄弟:護民官で、大土地所有者の土地を没収して無産市民に分け与えようとしたが失敗。兄:暗殺される 弟:自殺
以後、有力政治家は自分の保護下に置く人々を配下として多く抱え、彼らを使って互いに暴力で争うようになった。
こうしてローマは「内乱の1世紀」に突入。
軍隊は有力者が無産市民を集めてつくる私兵となり、
平民派の「マリウス」 VS 閥族派の「スラ」となった。
イタリア半島の同盟市はローマ市民権を求めて反乱を起こし、見せ物に使われた剣闘士がスパルタクスに率いられて大反乱を起こした。
第1回三頭政治
この混乱を武力によって沈めたのが実力者のポンペイウス・カエサル・クラッススの3人であった。
その後、カエサルはガリア遠征の成功によって指導権を獲得し、政敵ポンペイウスを倒して全土を平定した。
しかし、カエサルは元老院を無視して王になる勢いだったため、元老院共和派のブルートゥスらに暗殺され、政治は再び混乱した。
第2回三頭政治
カエサルの部下アントニウスとレピドゥス , カエサルの養子オクタウィアヌスが再び政治同盟を結んで閥族派を抑えた。
やがてオクタウィアヌスはプトレマイオス朝の女王クレオパトラと(同盟を)結んだアントニウスをアクティウムの海戦で破り、
プトレマイオス朝は滅ぼされてローマの属州となった。こうして地中海は平定され、内乱は終わりを告げた。
ローマ帝国
権力の頂点に立ったオクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。
ここから帝制時代が始まった。
オクタウィアヌスはカエサルと違って、元老院などの共和政の制度を尊重し、市民の中の第一人者(プリンケプス)と自称した。
しかし、実際にはほとんど全ての仕事を兼任し、全政治権力を持っていた。
この政治を元首政(プリンキパトゥス)といい、事実上の皇帝独裁であった。
これにより、約200年間の時代は「ローマの平和」と呼ばれ、平和が続いた。
特に五賢帝「トラヤヌス(その中の1人),マルクス=アウレリウス=アントニヌス」の時代はローマの最盛期でトラヤヌス帝の時の領土は最大となった。
そして都市文化が浸透した。その中にはロンドン・パリ・ウィーンなど、のちに近代都市になったものも多い。
カラカラ帝の時は帝国全自由人にローマ市民権が与えられ、世界帝国となった。
季節風貿易によって絹や香辛料がもたらされた。
3世紀の危機
ローマ帝国は、五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の頃から、財政の行き詰まりなどがあらわになってきた。
帝国が崩れ始め、各属州の軍人が独自に皇帝を立てて元老院と争い、短期間に多数の皇帝が即位しては殺害されるという軍人皇帝の時代になった。また、北のゲルマン人や東のササン朝などの異民族も侵入してきた。
上層市民の中には貧困化して都市から逃げ出した下層市民などを小作人(コロヌス)として働かせた。
こうした生産体制を、コロナトゥスという。
西ローマ帝国の滅亡
ディオクレティアヌス帝は、帝国を東と西に分け、それぞれを2人が統治する四帝分地制(テトラルキア)で政治的秩序を回復した。
政治体制はこれ以降、元首政(プリンキパトゥス)から専制君主制(ドミナトゥス)に変化した。
ディオクレティアヌス帝の政策を引き継いだコンスタンティヌス帝は、それまで迫害されてきたキリスト教を公認することで、国を安定させようとした。
ディオ⇨コン
また、財政基盤を整備するため、コロヌス(小作人)を土地に縛り付けて税収入を確保した。
ビザンティウムに新たな首都を建設して、コンスタンティノープルと改称し、巨大な官僚体制を築いた。
コンスタンティヌス帝の改革にもかかわらず、重税は属州の反乱をまねいた。
さらにゲルマン人の大移動によって帝国内は混乱したため、帝国の分裂を防ぐことは困難になった。
そこで、テオドシウス帝は帝国を東西に分割して2子に分け与えた。
東ローマ帝国:都市経済が比較的健在
西ローマ帝国:ゲルマン人の侵入で混乱を極め、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は退位させられ、滅亡
キリスト教の成立
当時ユダヤ教を指導していた祭司や、律法の実行を重んじたパリサイ派は貧困に苦しむ民衆の声にこたえようとしなかった。
イエスはそれらを批判し、民衆はイエスを救世主(ギリシア語でキリスト)と信じ、彼の教えに従うようになった。
祭司やパリサイ派はイエスをローマに対する反逆者として総督(ピラト)に訴えたため、彼は十字架にかけられて処刑された。
しかし、その後弟子たちのあいだにイエスが復活し、その十字架状の死は人間の罪を贖う行為であったとの信仰が生まれ、これを中心にキリスト教が成立した。
信徒の団体である教会もたくさんの地域に作られた。
『新約聖書』がギリシア語のコイネーで記され、『旧約聖書』とともにキリスト教の経典となった。
迫害から国教化へ
当時、ローマの宗教は多神教で皇帝も神の一人とされており、皇帝崇拝儀式が強化されていたが、唯一絶対神を信じるキリスト教は皇帝崇拝を拒んだ。これによって彼らは反社会集団だとみなされ、ネロ帝の迫害からディオクレティアヌス帝の大迫害まで、民衆や国家から激しく迫害された。しかし、キリスト教が拡大しすぎたため、ミラノ勅令で、キリスト教が公認された。
・キリストを神と同一視するアタナシウス派を正統教義する
・キリストを人間とするアリウス派は異端とされた。
アタナシウス派は三位一体説(聖霊とキリストとゼウスは同じ個体である)として確立。
背教者と呼ばれたユリアヌス帝が多神教の復興を企てたが失敗。
ついにテオドシウス帝はアタナシウス派キリスト教を国教とし、他の教えは厳禁とした。
また、エフェソス公会議で、キリストの神性と人性とを分離して考えるネストリウス派は異端と宣告されたが、のちにササン朝を経て中国に伝わり、景教と呼ばれた。
ローマの生活と文化
ローマ人の高度な精神文化では、ギリシアの真似で終わったが、ギリシアから学んだ知識を帝国支配に応用する、実用的文化においては優れていた。
例えばローマ字は今日ヨーロッパの大多数の言語で用いられているし、ローマ人の話したラテン語は国際的な公用語だった。
今日に残る有名遺跡
・コロッセウム(円形闘技場)
・パンテオン(万神殿)
・アッピア街道
都市下層民は「パンと見せ物」を楽しみに生きており、闘技場での見せ物に歓声をあげた。
国家支配の実用的手段として、のちに最も大きな影響を与えた文化遺産は「ローマ法」である。ローマ法は最初はローマ市民にだけ適用されていたが、のちに帝国に住む全ての人民に適用される「万民法」に成長した。
法学者を集めて編纂させた『ローマ法大全』がその集大成である。
それは今日の我々の生活にも深い影響を与えた。
現在も用いられているグレゴリウス暦は、カエサルが制定したユリウス暦から作られた。
アウグストゥス時代はラテン文学の黄金期と言われるが、ウェルギリウスらの作品にはギリシア文化の影響が強い。
ギリシアに始まった弁論術はローマでも発達し、優れた弁論家キケロを生み出した。
政体循環史観で知られるポリビオス
当時知られていた全世界の地誌を記述したストラボン
のようなギリシア人によるものも大事である。
哲学の分野では、特にストア派哲学の影響が強く、その代表であるセネカやエピクテトスの説く道徳哲学は上流階層に広まった。
皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスはストア派哲学者としても有名である。
自然科学では、プリニウスが百科全書的な知識の集大成である「博物誌」を書いた。
またプトレマイオスの唱えた天動説は広まった。
帝政期の民衆の間にはミトラ教やマニ教などが流行したが、最終的に国家宗教の地位を獲得したのが、キリスト教である。
ローマ帝政末期には、エウセビオスやアウグスティヌスらの教父と呼ばれるキリスト教思想家たちが、政党協議の確立に努め、のちの神学の発展に貢献した。
お疲れ様です。
記事の内容に間違いがあった場合は、Twitterもしくはお問い合わせフォームからお伝えください。
おすすめ記事